三国一の読書野郎※60
被害者家族は加害者を許せるか?
「被害者家族は神様で、マスコミは忠実なる司祭なのか?」。こんな腰巻に引かれて藤野眞硬巧「犠牲(いけにえ)にあらず」を読む。
犠牲(いけにえ)にあらず 著者:藤野 眞功 <口上>殺人罪に服した7年間に、どうやら俺は修羅を飼ってたらしい―。出所直後から週刊誌の取材攻勢に曝され、気づけば一転、有名人に祭り上げられた男。その空騒ぎのただ中で、彼は7年の彼方からシグナルを受け取った。計画を始動する時が来たのだ。被害者側と加害者側をたやすく逆転させて楽しむ世間を、「消去」してやる必要があった。 要するに、被害者は常に正しく、加害者はいつまでも悪なのかというテーゼに疑問を投げかけたいのだろうが、それが小説として、昇華しているかどうか。著者はルポライターで、これまでもノンフィクションを刊行しているらしい。しかし、小説としての完成度には疑問符がつく。 まあ、商売柄なのだろう、フリーライターの生態やブローカーの暗躍、チンピラやくざの生態などは、生き生きと描かれていて、面白くはあるのだが。 個々の人間に魅力がなく、何よりも、殺人罪で罪に服した主人公の「内容」が薄く、物語に厚みを与えていないのが致命的であると思う。多分に、意気込みはあるのだから、もう少し練るなり、書き込めばよかったのにと、残念な気もする。 しかし、いまの時代、いわゆる普通の殺人罪(というか、この小説の場合は過失致死か傷害致死に近いのではないかと思うが)刑期を終えた人間に改めて取材するようなメディアはなかなか、ないのではないか。そうなると、物語の前提自体が成り立たないけどね。 ⇒☆☆★
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