最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 昼食問題54 | トップページ | 本を読む60 »

昼食問題55

老舗なのだが

 しぶりに酔漢アドマンのFくんをランチに誘い出す。行き先は札幌市中央区大通東1、中央バスターミナル地下「とんかつ・とんきゅう」だ。このターミナル地下、本当に趣のある店が並んでいます。

Photo_64  Fくんの話によるとこの店、彼が小学生のころから、父親に連れられてきているというから、創業30年以上にもなるのだろうか。「デパートで買物をして、この店でとんかつを食べるのが何よりの楽しみでした」と札幌っ子・Fくんは回想する。当時から、今いるおばあさんが店を切り盛りしていたという。このおばあさん、、髪は黒々としているが一体、おいくつなのだろう?

 とんかつ定食は650円なのだが、私はロースカツ定食を頼んだ。1000円なり。たっぷりのキャベツ、ナメコのみそ汁、丼飯。まあ、値段相応か。

 でもカツがちょっとなあ。脂身が多すぎるんだよ。それに、好みとしてはもう少しパリッと揚がっている方が好きだなあ。衣も、カツの味わいの一部だからね。みそ汁はよろしい。キャベツもぱりぱりだから、脂身の多さが何とも残念だ。

 結構、サラリーマンや学生風の客で混んでいる。学生風が頼んでいたしょうが焼き定食は、豚肉のボリュームが凄かった。確か650円。このボリュームで人気を呼んでいるのかもしれない。

 帰り道でFくん、曰く。「懐かしい店でしたが、懐かしがっているうちが華かもしれません。おばあさんの腕が落ちたのかな」。いえいえ、なかなか、楽しめましたよ。

☆①味13点②オリジナリティー14点③接客14点④コストパフォーマンス15点⑤雰囲気16点⇔72点。悪くはないんですがね

« 昼食問題54 | トップページ | 本を読む60 »

昼飯」カテゴリの記事

コメント

私は、ヒレカツ定食(1,100円)を頼んだのですが、確かにあんまりぱりっとしてませんでした。小さいときのイメージでは、もっとぱりぱりだったような気がしてたのですが・・・。
ところで、いつの間にか、バックをトホホ犬に戻していたのですね。私も、やっぱりこれが好きです。

昔はジンギスカン鍋の上に載っている脂まで食べたもの。今でも「喰え」といわれれば躊躇なく喰える。そもそも脂身のない肉なんて、●●ルズで「サンシャイン・オブ・ユアラブ」を聴くようなもの。鶏は脂がのった皮とポンポチが一番うまいし、とんかつも半分は脂でも文句は言わない。
やっぱ脂身はうまいぜ、脂身バンザイ!!脂とは関係ないが、昔地下鉄がまだ開通していなかった札幌の中心は中央バスターミナルだった気がする。とにかく人が多かったと記憶している。そこからあらゆる方面へ人が流れていったし、また集まってきた。ターミナルの中の店は子供目にも小洒落た感じがしたし、ちょっとした異空間の趣きがあった。もう30年も行ってないな~。

私も昔は脂身も平気だったんですがね~。よる年波と肥満に耐えられなくなってきたわけです。
ジータさんも、会長さんも、昔の札幌の思い出、語ってくださいよ。中央バスターミナルの全盛期なんて面白い話ですよね。
会長は万字会館の全盛期も知っているわけだし。

万字を追われ札幌に出てきて新琴似に住んだ。昭和40年代のあたま。信じられないと思うがその当時新琴似には一本も舗装された道路がなかったのだ。春先4番通はぬかるみ車が何台もスタックして道を塞いだもの。さらに信じてもらえないと思うが家から豊平川の花火が見えた。音も聞こえたのだよ。開通前地下鉄麻生駅のところは吉田牧場があった。街に出るのは中央バスに乗り(15円)中央バスターミナルへ。あるいは市電でススキノまで。今の109のところだったか、たしかスケートリンクがあった。バスターミナルの一階にはロッテガムの自販機があって、長距離移動の客が良く買っていたっけ。二階には妙に暗い喫茶店があったが、入ったことはない。そういえばカレー屋と焼きソバ屋もあったよな。食堂がない田舎にいたのでお祭り以外外で食事なんてしたことがなかった。そこで食べるとなんだか都会人になった気がしたよ。万字温泉はもともと強制連行されてきた朝鮮人の宿舎だって知ってた?

さすが会長。なかなかの思い出話だよな。
万字温泉、湯船に浮かんでいるリンゴが腐っていたのが印象的。こまめにすくって出せばいいものを・・・。
あ、そういえばジータも確か、その昔の新琴似人では?

おお、会長も新琴似人だったのですか。
私はものごころついてから新琴似に住み続けていました。最初は、5番通りに、次に6番通り、ちょっと別の場所に浮気してから、3番通りに住んでいたのでした。
私のころは、4番通りだけがすっかり舗装されていて、5番通りは砂利でした。時々ダンプがやってきて、砂利を撒くので、近所総出でならしていたのを思い出します。
夏は防風林や、屯田兵中隊本部があった新琴似神社でよく遊んだものです。

すごい世界だったんですね、新琴似って。今では繁盛したマチという感じですが。
そういえば、私が育った東京・下町でも昭和30年代後半になっても舗装されていない道がたくさんあって、雨上がりにはドロドロになって遊んだもんだ。街中に「原っぱ」という空間もあってね。土管が積んであったりした。「三丁目の夕日」の世界だね。

ああ、原っぱもそこら中ありました。
道には、必ずどぶがあって、きたないんですけど、意外とセリがあったりして、アゲハの幼虫などは家の前で取っていました。
ただ、土管はなかったんですよね~。その頃の札幌には、下水道計画がまるでなかったのでしょうね。

さすが北海道だね。東京ではアゲハは見れなかった。せいぜい、モンシロチョウだったなあ。
でも、あのころの記憶って、なぜかモノクロなんだよな。色がついていないんだよ。私だけだろうか?

紅葉山には「とんぎょ」が腐るほどいたよな。電話だって自宅になくて隣のを貸してもらったりしていた。水道がまだなくて、みんな井戸だったよ。泥炭地だったのでそれがまた臭くてね。16丁目から北はごみの集積場。当然分別などしていない。家電から家具まで、宝物がたくさんあった。40年代初頭空知地区の炭鉱が次々閉山していく中、宅地になった新琴似地区は黒手帳を持ったヤサグレがいっぱいいたよ。

うちの嫁が言い出しているのです。
「北海道は湯沸かし器などなかった。石炭ストーブの延長にお湯を沸かすものがあった。ストーブメーカーはイナドメ(?)。だから冷たい水で顔を洗うことはなかった」。
排気熱利用のお湯? 
そうなんですか?

家で使っていたストーブは鋳物でもルンペンでもなく炭鉱の工場で作られたもの(無印良品)。少々厚い鉄で作られて、寸胴型。ストーブの後方にはかなり大きなブリキ製のバケツ(直径約40センチ、高さ60センチほど・蓋付き)の中央を煙突が通るようにくりぬかれた湯沸しがあった。大方の家庭はひしゃくを入れていて洗い物などのときこの湯を使う。飲料用はストーブ本体の上の鉄瓶から。石炭をストーブに入れるときには(これを北海道では「くべる」と言う)前面のふた状のものを鉄製のデレキで開け、ジュウノ(十能ではない)でくべる。一般の家庭の折檻道具はこのデレキ。炭鉱では石炭がほぼただなので一年中たいている。
煤煙のことはフランという。またボタ山ではなくズリ山。石炭の燃えカスをアクといってガンケから投げる(捨てる)。

ストーブに関しては北海道勢、しかも、旧産炭地の万字出身者にかなうわけがありません。
東京ではストーブは、本当に寒いときに使うだけ。普段はコタツだけでした。空っ風が冷たかったなあ。部屋をガンガン、ストーブで熱して、冷たいビールを愉しむ「北海道方式」は贅沢だなあ、と北海道に来た直後は思ったもんです。すぐになれてしまいましたが。

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 昼食問題55:

« 昼食問題54 | トップページ | 本を読む60 »

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31