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映画評、のようなもの⑧

表現することの宿命

 2006年7本目の映画は「カポーティ」です。スガイ・シネマプレックスで観ました。ここは会員になると、毎週月曜日、入場料が1千円になるサービスを行っています。

 このブログの「本を読む」でも紹介したノンフィクションノベル「冷血」の作家トルーマン・カポーティーが、冷血を書き上げる6年間を描いていた文芸映画とでもいうのでしょうか。日本ではまず、成立しえないジャンルの映画のような気がします。

 難しい映画ですね。いわゆるエンタティンメント性には欠けます。作家の宿命、書くことに魅せられた人間の行動を、冷静に暴いていきます。

 主演のフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が圧倒的。「アル中でヤク中で天才のホモ」だったカポーティを演じきっています。やり過ぎの感があるほど、なりきっています。

 「冷血」はカンザスの片田舎で豊かな農夫一家4人を惨殺した無軌道な若者2人の犯罪を通じて、空洞化した戦後アメリカ社会の心象風景を描き出していると思います。この映画は表現者としてのカポーティが、作品を書き上げるため取材した犯人のうちの1人、ペリー青年に接近しすぎ、その結果、「冷血」以降、まとまった作品が書けないまま18年後に死んでしまったと強調。つまり「カポーティが書けなくなったのはなぜか」を探る映画なのだ」を探るドキュメンタリータッチの映画になっています。

 対象との距離感をいかに保つかを、表現者は模索し続けるわけですが、映画はカポーティを、距離感の維持に失敗した作家として描いています。

 表現することの意味を問う、深みを持った映画だと思います。こういう映画を作り、商業ベースに乗せてしまうアメリカという国はやはり、すごい。

カポーティ

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