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三国一の読書野郎2012※29

オールド・ファッションな物語として

 第146回芥川賞を受賞した田中慎弥の「共喰い」を読む。同時受賞の円城塔と比較すると、極めてオーソドックス、オールド・ファッションな物語を紡ぐ作家だ。受賞会見での「もらってやる」発言などで変人扱いされているようだが、実は、王道を行く作家なのではないか。

<口上>昭和63年。17歳の遠馬は、怪しげな仕事をしている父とその愛人・琴子さんの3人で川辺の町に暮らしていた。別れた母も近くに住んでおり、川で釣ったウナギを母にさばいてもらう距離にいる。日常的に父の乱暴な性交場面を目の当たりにして、嫌悪感を募らせながらも、自分にも父の血が流れていることを感じている。同じ学校の会田千種と覚えたばかりの性交にのめりこんでいくが、父と同じ暴力的なセックスを試そうとしてケンカをしてしまう。一方、台風が近づき、町が水にのまれる中、父との子を身ごもったまま逃げるように愛人は家を出てしまった。怒った父は、遠馬と仲直りをしようと森の中で遠馬を待つ千種のもとに忍び寄っていく....。川辺の町で起こる、逃げ場のない血と性の臭いがたちこめる濃密な物語。第144回芥川賞候補作「第三紀層の魚」も同時収録。

共喰い

三国一の読書野郎2012※28

意欲的な論考

 速水健朗というライターの「ラーメンと愛国」はなかなか意欲的な切り口で、現代史を読み解く試みである。補助線はラーメンだ。「なぜラーメン屋は作務衣を着るのか?」などといった問題設定も楽しい。

<口上>なぜ「ラーメン職人」は作務衣を着るのか?いまや「国民食」となったラーメン。その始まりは戦後の食糧不足と米国の小麦戦略にあった。“工業製品”として普及したチキンラーメン、日本人のノスタルジーをくすぐるチャルメラ、「ご当地ラーメン」に隠されたウソなど、ラーメンの「進化」を戦後日本の変動と重ね合わせたスリリングな物語。

ラーメンと愛国 (講談社現代新書)

三国一の読書野郎2012※27

死滅したものとしての歌謡曲

 なかにし礼の「歌謡曲から『昭和』を読む」が面白い。作詞家として、戦後歌謡曲と軌を一にしてきた人物だからこそ書くことができるリアルな歌謡曲像が結ぶ。そして何より、死滅してしまったものへの愛情がこもった一冊なのである。

<口上>昭和から平成へと時代が変わって二十余年、日本の音楽業界は激変した。嗜好する楽曲の分散化、ジャンルの細分化、パッケージの簡素化…。なかでも象徴的な例は「歌謡曲の衰退」である。ラジオやテレビを通して全国津々浦々に行き渡り、ヒット曲ともなれば国民の誰もがそれを知っている―そんな歌謡曲=流行歌はいま、どこへ行ってしまったのか?数々のヒット曲を生み出した実作者だからこそ語れる「昭和歌謡」の真髄。

歌謡曲から「昭和」を読む (NHK出版新書 366)

三国一の昼飯野郎2012⑳

「エッジが立っていない」の巻

 CDを求めて、札幌市中央区南2条西4丁目の「ピヴォ」に行く。コルトレーンやディランを買った後、そういえば、ビルの3階にスープカレー屋があったことを思い出し、入る。

 しかし、である。かつては「QUEE」とかいう名前だった店が「Ouchi ピヴォ店」に変わっていたのである。「Ouchi」は狸小路の7丁目に本店があるのだが、旧「Quee」を居抜きで買い取り、営業を拡大したわけだ。

 ベジタブルスープカレー(900円)を頼む。ソフトドリンク付き。辛さは5段階中の4番にしてみた。

2012020214170000  野菜たっぷりの具はそれでよろしい。だが、問題はスープである。

 軽すぎるというか、芯が通っていないというか。もう少し、「どしっ」としたものがないと、腹に響かないんだよな。

 狸小路の本店には2008年6月に一度、行ったことがある。そのときにも、「物足りなさ」を指摘した。女性客が多い店なのだが、そのエッジの緩さは女性向けなのだろうかという、前回と同じ疑問を掲げておく。

双子山評定:☆☆☆。コクがほしいんだ、コクが

三国一の昼飯野郎2012⑲

「サラリーマンの味方です」の巻

 札幌駅と大通が地下でつながった関係で、雪に降られずに、飲食店のあるビルへ行くことができるようになった。札幌市中央区北2条西3丁目の敷島ビルも地下でつながっており、ここに数多ある飲食店にも行きやすい。

 というわけで「ぱーとな」に入ったのである。ここはハンバーグの店。昼時になるとサラリーマン、OLでごった返す。きょうも13時半過ぎに入ったのだが、混んでいたぞ。

 セットメニューを頼む。サラダ、ドリンク付きで750円だから格安感があります。

2012020114100000  まあ、そのパテの薄さは仕方ない。サラダがキャベツばかりなのも許す。そのコスト・パフォーマンスは素晴らしいから。

 付け合わせのスパゲティとか、卵がうまい。ライスもなかなかだ。非常にベーシックな仕事をしていて、好感が持てる。こういう店がビジネス街からなくなったとき、サラリーマンは叛乱を起こすのである。こういう店は、サラリーマンの味方なのである。

双子山評定:☆☆☆★。素晴らしいです

三国一の昼飯野郎2012⑱

「ちょっとあっさり」の巻

 会社近くの札幌市中央区北1条西2丁目、時計台ビルに。このビルの飲食店もかなり、代替わりしている。何となくのラーメン気分だったので「牛一」に入る。牛骨ラーメンとやらが売りの店なのだが、メニューはいろいろある。「昔風しょうゆラーメンととりめしセット」を頼む。750円である。

2012013114140001

 うまい。本当に昔風の、あっさりしたラーメンである。まあ、その分、コクがないと言えば内のだが。最近、主流になっている「がつん」と強烈なパンチが来るようなラーメンではない。たとえて言えば和風美人である。

 とりめしの塩梅もちょうど良い。量も、味も。

 中庸の良さ。おいしすぎず、まずすぎずというやつだ。ほどほどの美学である。満足しましたが、ちょっと、あっさりしすぎたという感も否めません。

双子山評定:☆☆☆。こういう味に慣れすぎてしまうと、大きな人物にはなれないと思う。勘だけど

三国一の昼飯野郎2012⑰

「ライスを大事に」の巻

 札幌地下街オーロラタウンを彷徨し、「ライオン」に入る。こここそ、本当に昔からあるビアレストラン。ランチメニューも豊富なのだが、「うまい」と思った試しはない。しかしまあ、たまには入ってみるかということで。

 「なつかしメニュー」と銘打ったカキフライをオーダーする。880円だ。

2012013014130001  スープ付き。カキフライは4個。タルタルソースで食すようになっている。刻みキャベツはたっぷりだ。

 カキフライは揚げたてらしく、熱かった。「おっ、なかなかやるじゃん」と感心した。

 しかし、食べていくと、ライスが弱点であることがわかった。「安い米を使っている」ということがわかってしまうのだよ。もう少し、ライスに気を配らないと。それが、すべての基本だからね。そういう、残念な店が札幌の場合、かなり多いような気がするのだが、いかがか?

双子山評定:☆☆★。ライス・イズ・シンプル

三国一の読書野郎2012※26

異様な迫力で読ませる伝奇小説

 第6回小説現代長編新人賞を」受賞した吉村龍一という作家の「焰火」を読む。荒削りな文章と構成ながら、新人らしい迫力に満ちている。ぐいぐいと読者を無理やりに引っ張るリーダビリティーで、「おいおい」と突っ込みを入れながらも、読者は最後まで読んでしまうのである。凄い力業だ。

<口上>昭和初期の東北の寒村で貧しい狸とりの息子として、侘しい暮らしを送る男。肺病の家系にあり、村八分にされている。そんな彼の唯一の心の慰めは、おミツという村の女だった。盗人の家に生まれ、差別さて続けたおミツと男は強く惹かれあう。しかし、あるとき村長の息子たちに捕らえられ、おミツは殺され、男は村長の息子等を殺して、命からがら川に飛び込み、生まれた村を離れる。逃亡生活の中で男は山の民、川の民、盲目の遊女、破戒僧らと出会う。自然の中でつかの間の幸せを味わう男に、ひたひたと迫る追っ手の魔の手。彼の運命はいかに。

双子山評定:☆☆☆☆。面白いことは確かなのだが、かなりのえぐさもあるので要注意です

焔火

 

三国一の読書野郎2012※25

江戸のグルメ

 赤坂治績「江戸歌舞伎役者の<食乱>日記」を読む。幕末~明治の歌舞伎役者・三代目中村仲蔵の旅日記から各地で食したものをピックアップしていく趣向だ。

 なかなか、うまそうなものばかり。内視鏡検査で絶食していたときに読んだから、ヨダレが出た。海のない信州信濃では、そばを松茸の出汁で食べていたとか、海水で握った塩むすびとか、ね。まさに江戸のグルメである。

 その土地、その土地に名物があり、しかも大しておいしくないものもそのまま、正直に描かれていて面白い。

双子山評定:☆☆☆。鶴は江戸では将軍家に献上するため庶民は口にすることができなかったが、地方では食べていたらしい。ただし、うまくなかったらしいぞ

江戸歌舞伎役者の“食乱”日記 (新潮新書)

三国一の読書野郎2012※24

食べることの美術史的意味

 「食べる西洋美術史」を読破。バロック、ルネッサンス美術を専門とする宮下規久朗氏の著作。「最後の晩餐」とは何なのか。西洋美術において「食」はいかに描かれてきたかを概観する。示唆に富む一冊である。

<口上>西洋は古来、食べることに貪欲であり、食にかける情熱はしばしば料理を芸術の域にまで高めた。また、食べ物や食事は西洋美術においては常に中心的なテーマであった。中世にキリスト教によって食事に神聖な意味が与えられると、食事の情景が美術の中心を占めるにいたる。この伝統が近代にも継承され、現代もなお重要な主題であり続けている。このことは西洋特有の事象であり、西洋の美術と文化を考える上できわめて重要な手がかりとなる。本書は、食事あるいは食物の美術表現を振り返り、その意味を考えることによって、西洋美術史を別の角度から照らし出そうとするものである。

双子山評定:☆☆☆。著者は暴飲暴食で身体をこわしたそうだ

食べる西洋美術史  「最後の晩餐」から読む (光文社新書)

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